~ 群馬研修旅行 ~

     吉井の歴史と徳川の発祥の地・縁切寺


実施日:2008年9月18日(木)・19日(金)

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※こちらの研修旅行は終了致しました。

 

 ●研修旅行の目的

 

 今年度発足したばかりのTBAYMBAの交流を深めるため渡辺先生の縁のあるお寺(仁叟寺)にて親睦を深めます。また同時に、坐禅をしたり縁切り寺を見たりして仏教文化に触れることが目的です。

 

具体的には初日は、吉井町郷土資料館、日本三大古碑の一つがある多胡碑記念館を見て吉井町の歴史に触れます。その後に総会、坐禅、勉強会をします。2日目は、簡単に離婚ができない時代に離婚をさせる役割を担ったお寺、満徳寺(縁切寺)をメインに、埴輪で有名な相川考古館、徳川家と縁のある長楽寺、世良田東照宮を見て廻ります。

 

 

 

 

スケジュール

 

1日目:

1020 高崎駅 集合 

1031 高崎駅発(上信電鉄 片道540円)

1052 吉井駅着

1110 仁叟寺着・・・ ①

     お昼

1230 出発

1250 吉井町郷土資料館・・・ ②

1315 出発

1330 多胡碑記念館・・・ ③

1415 出発

1445 仁叟寺着

1500 総会

1600 坐禅

1630 勉強会

1900 夕飯

 

2日目: 

900 仁叟寺 出発

1000 相川考古館・・・ ④

     見学、抹茶、昼食(鳥めし)

1200 出発

1230 長楽寺(説明45分)・・・ ⑤

1315 東毛資料館(説明30分)

1345 世良田東照宮(説明30分)・・・ ⑥

1415 出発

1425 満徳寺(縁切寺)・・・ ⑦

     資料館、寺-復元、本堂のみ

1500 出発

1600 深谷駅 解散

 

 

<初日>

 

①仁叟寺  曹洞宗  天佑山  公田院

本尊:釈迦如来

 室町時代の応永元年(1394年)から正長元年(1428年)

にかけて吉井町奥平公田に奥平城平貞訓公により創建された。

その後子孫の貞能公が寺領を寄進した大永二年(1522年)

に現在の吉井町神保に寺を移して本堂を再建し開基となり、

北群馬郡子持村雙林寺四世の高僧、直翁裔正禅師を初代住職

に請して開山されたのが現在の寺のはじめである。

開山以来五百年間戦乱の世にも厳然として格式を保ち続け長根城主小幡公、宮崎城主奥平公、吉井城主菅沼公、地頭長谷川公同じく溝口公などの帰依と手厚い保護を受け、徳川三代将軍家光公の代には寺領及び御朱印二十五石を改めて賜った。

下って明治三十二年には政府内務省より、県内全宗派寺院の中から世良田の長楽寺と仁叟寺の二ヶ寺が古社寺保存指定を受け保存御下賜金を受ける。

大正九年に曹洞宗管長より宗門上位の別格地の認可をいただく。この間、当時の豪商秋山豊次郎翁に寺門興隆に尽力された功により中興開基が贈られた。

終戦と共に六町歩以上あった寺の土地は境内地のみ残し、すべて全開放になり明治の廃仏毀釈と同様、苦難の時になるが壇信徒、力をあわせ運営維持がはかられた。

昭和四十六年に仁叟寺全域と古文書が吉井町指定史跡となる。昭和六十三年より平成十二年に至るまで諸堂の改修と建設が進み、現在の伽藍整備された寺に面目を一新する。

 

 

②吉井町郷土資料館

 主な展示資料は吉井藩関係の資料、馬庭念流関係資料、吉井火打金関係資料になる。他に吉井町に関する地質・考古資料や民俗資料(別館)も多数展示・保管。

江戸時代、吉井町の特産として火打金が広く知られていて、吉井町郷土資料館では、その特産であった火打金を復元し、販売している。

・吉井藩関係の資料

 吉井町誌編集の調査にあたり、吉井藩主家子孫土屋百合子(旧姓吉井)氏より吉井町に350点の藩主家資料が寄贈された。この資料の内容は、軸物・掛物・和歌短冊・兵法書・写真・手紙類・一族の遺品など、吉井藩主に関する一級資料である。

 吉井藩は上野国、上総国に一万石を所領する小大名であるが、藩主は江戸定府(じょうふ)で参勤交代もなく、厚遇された。陣屋は初め大字矢田にあり、「矢田藩」と称し、矢田と木部(現高崎市)の間で移動をくり返し、宝暦年間吉井に陣屋が移り、幕末まで続いた。吉井藩主家は関白鷹司(たかつかさ)信房の子として信平(のぶひら)が「松平」の称号と上野・上総国の7000石を与えられた。孫の信清(のぶきよ)に至り、3000石を加増され大名となり、十二代信謹(のぶのり)で明治となった。

・馬庭念流関係資料

馬庭念流は相馬四郎義元が応安元年(1368)5月、兵法の奥義を感得して以来、今日まで630年余経過した中で約400年間、つまり三分の二以上を樋口家一系で相伝し現在に至っている。このような伝統ある流派は他に例がない。この念流が武術史上で最初に刀剣の術とし、体系化・成文化され確立し、後世の名流派の発祥に大きな影響を与えたことは世に広く知られたところである。

 念流剣術の型は「表五本(木剣)」「裏三本袋竹刀」「組十本(真剣)」「長刀五本」「槍五本」「矢留術(当主又は最高位の者に限る)」である。

 念流剣術の稽古は型に重点を置き、入門者は表五本を初歩として、裏三本・長刀・槍などを適宜に錬磨し、技術が上達するにつれ、組十本を習得するのが一般的な過程である。

 試合は袋竹刀で篭手・鉢金を用い、構えは普通無構えである。

・吉井火打金関係資料

橳島(ぬでじま)家は「吉井の火打金」を13点所蔵している。この火打金は吉井宿の特産品で江戸時代から明治30年頃まで製造販売されていた。

 所蔵する火打金は、ネジリ型(携帯用)が4点。短冊形が1点。携帯用セットが3点。カスガイ型が4点。火打鎌が1点。この鎌は通常火打金として使用しているが護身用として内側に鎌の刃が付いている。その他、火打金の価格表がある。これらの吉井の火打金は民俗資料として価値のあるものである。

 橳島(ぬでじま)家は吉井藩の代官を三代務めた家系で、数多くの古文書・書籍・武具・馬具・刀剣・什器・民俗資料が所蔵されている。島高堅自記・多胡旧記他80品目は町指定の文化財になっている。

 

③多胡碑 

 多胡碑(たごひ)は、群馬県多野郡吉井町池字御門にある古碑であり、国の特別史跡に指定されている。山ノ上碑、金井沢碑とともに上野三碑と称される。また、書道史の上から、那須国造碑、多賀城碑と並ぶ日本三大古碑の一つとされる。建碑は、その内容から8世紀後半とされる。

 碑身、笠石、台石からなり、材質は安山岩、碑身は高さ125cm、幅60㎝の角柱で680文字の漢字が薬研彫りで刻まれている。笠石は高さ25cm、軒幅88cmの方形造りである。台石には「國」の字が刻まれていると言われるが、コンクリートにより補修されているため、現在確認できない。材質は近隣で産出される牛伏砂岩であり、地元では天引石、多胡石と呼ばれている。

 その碑文は、711年(和銅4年)39日に多胡郡が設置されたことを記念した内容となっているが、その解釈については、未だに意見が分かれている。特に「給羊」の字は古くから注目され、その「羊」の字は方角説、人名説など長い間論争されてきた。現在では人名説が有力とされている。さらに、人名説の中でも「羊」氏を渡来人であるする見解が多く、多胡も多くの胡人を意味するとされている。付近の遺跡からは「羊」の文字の入った文字瓦が発見されており、この説を有力たらしめている。

 上野三碑のうち2碑は、多胡碑と内容、形態において性格を異にしている。しかし、3碑が同一郡内の比較的近い範囲に存在することや建碑時期が近いと考えられることから、当時の政治的状況と3碑の関連性が指摘されることもある。

 書道の面から見ると、江戸時代に国学者高橋道斎によってその価値を全国に紹介され、その後多くの文人、墨客が多胡碑を訪れている。その価値は清代の中国の書家にも認められた。筆の運びはおおらかで力強く、字体は丸みを帯びた楷書体である。六朝の影響を受けているとも、中国北魏の書風に通ずるとも言われる。

 地元では、昔から「羊太夫」の墓とされ、「羊さま」と呼んで尊崇、信仰の対象としてきた。比較的損傷しやすい石碑が、非常に良い状態で保存されてきたのはこのためだと言われる。今も堂宇の中に保存されている。

 1954年(昭和29年)、国指定特別史跡に指定される。町営の記念館が併設されており、多胡碑の開扉願いを事前に申請すれば、堂宇に入って多胡碑を見ることができる。ただし、手に触れることは禁止されている。

 

 

<2日目>

 

④相川考古館

 江戸時代伊勢崎町の町役人を務めていた相川氏の居宅を利用した博物館。

 江戸の始めから続く相川氏は、創業は不明だが商家として金物を商っていた。また、伊勢崎町の脇本陣として、1639(寛永16)年からいくたびか利用されていた。1838(天保9)年には幕府巡検使内藤源助が休泊した記録が残っている。

 現在、母家や土蔵、茶室など江戸時代に建てられた歴史的建造物を一般公開している。

 かつての商品倉庫、金物蔵であった土蔵には、考古館の創始者である相川之賀が多年にわたり収集した伊勢崎地方から出土した考古資料等が展示されてある。重文収蔵庫には国指定重要文化財の埴輪4点が展示されている。また、相川杪保の隠居部屋として1861年竣工した茶室「觴華庵」は県の重要文化財に指定されている。

・創始者 相川之賀 考古館

之賀は1866(慶応3)年、旧伊勢崎町の金物商相川次郎平・はん夫妻の長男として生まれた。東京の柳陰家塾で漢学を学んだが、「これからは漢学の時代ではない、英学の時代だ」と考え、「米国で学んで日本を東洋の日本ではなく西洋の日本と呼ばれるようにしたい」という思いで、1885(明治18)年単身渡米した。

 1893(明治26)年一時帰国し、翌年、榎本武揚の殖民協会や坪井正五郎の東京人類学会に入会、坪井正五郎先生を通じて帝国大学に人類学上参考用写真を寄贈。その後も東京帝国大学にカナダ太平洋岸先住民関係資料を寄贈すると同時に、帰国の際には郷里でも考古資料を収集していた。1914(大正3)年に家督相続のため帰国してからは、伊勢崎郵便局長や町会議員を務め、1921(大正10)年には群馬県史跡名勝天然記念物調査委員となり、県内の文化財の調査等に携わった。1936(昭和11)年、之賀は今泉嘉一郎博士・森村堯太氏らの協力を得て相川考古学館建設会を設立して自身の経営する農園の一角に博物館建設を計画したが、戦争のため実現することがないままこの世を去った。

 之賀の長女徹子は「公共に役立てよ」との父親の意志に従い柴田常恵先生や寺島裕の協力を得て、之賀が亡くなった年の秋、1950(昭和25)1015日に自宅に相川郷土館を開設。後に名称を相川考古館と改め、さらに1993(平成5)年には財団法人相川考古館を設立し、今日に至る。

 

⑤長楽寺   天台宗  世良田山

本尊:釈迦如来 

 徳川家発祥の地の寺。開創、承久3年(1221)後鳥羽上皇の勅願と伝えられる長楽寺を世良田に新田義重の子、徳川義季が創建し臨済宗開祖栄西の高弟栄朝を招いて開山した。室町時代初期(南北朝時代)には十刹のひとつに列せられた。開基当初は臨済宗であったが、徳川家の祖とされる徳川義季が創建したとされることから徳川家の帰依を得、江戸時代江戸幕府に起用された天台宗の僧天海により天台宗に改宗となった。また、天海僧正の発願により、第3代将軍徳川家光のとき東照宮が長楽寺境内に移築された。伝徳川義季像は開山堂に安置されていた、寄木造り、像高87.5㎝の木像。頂相(ちんぞう/師が弟子に法をついだ証として与えた自分の肖像)とよばれる肖像彫刻で、衣の袖と裾を正面に垂らし、曲ろく(きょくろく/説法や法要のときにもちいる椅子)に安坐している。顔・首部及び胸の一部は肉色、衣文は黒一色の漆塗で、彫眼手法によりくぼんだ眼と鼻が写実的に表現され、禅定印を結んでいる。胎内には、至徳3年(1386)の修理銘があり、その後文明22年(1491)、明応4年(1495)に修理が加えられている。制作年代は修理銘などから鎌倉時代末期頃と考えられている。寺伝では、長楽寺開基の徳川義季像とされているが、禅宗高僧の頂相像であるところから長楽寺第2世蔵叟朗誉とも考えられている。この他に仏像2躯と勅使門はいずれも県の指定文化財。

 

⑥世良田東照宮

  東照大権現たる徳川家康を祀る東照宮。1616(元和3)年に駿河国久能山(久能山東照宮)より下野国日光(日光東照宮)へ家康の遺骸を改葬した際に建てられた社殿を、1644(寛永21)年に上野国世良田へ移築し、創建された。この地は新田氏の開祖新田義重の居館跡とされ、隣接する長楽寺は義重の供養塔もあり、歴代新田氏本宗家惣領が厚く庇護を与え、大いに栄えていた。関東に入った徳川氏は、新田氏から分立したこの地を発祥地とする世良田氏の末裔を自称していたため、徳川氏ゆかりの地ともされた。寛永21年(1644年)、3代将軍徳川家光の命により、徳川氏の遠祖の得川義季の墓があり、天海僧正が住職をしていた長楽寺の境内に創建された。歴代徳川将軍から信仰され、江戸時代は大いに栄えた。明治8年(1875年)、神仏分離によって長楽寺から分離し、明治12年(1879年)に郷社に列格した。社殿は、創建の際に日光東照宮の古社殿を移築したもので、一間社流造の本殿、入母屋造の拝殿、唐門は国の重要文化財に指定されている。他に、元和4年作の大鉄燈籠も国の重要文化財となっている。

 

⑦満徳寺  時宗  徳川山

本尊:阿弥陀如来

群馬県太田市(旧新田郡尾島町)にある時宗の寺院。鎌倉の東慶寺とともに縁切寺として知られる。江戸幕府を開いた徳川氏の祖とされる徳川義季の開基により創建されたと伝えられる。そのことから徳川氏の帰依を得、2代将軍徳川秀忠の娘千姫が豊臣秀頼と別れた後、縁切のためこの寺に入りその後本多忠刻に再嫁したという。江戸時代には江戸幕府から朱印状も与えられていた。1872年(明治5年)にいったん廃寺となったが、1894年(明治27年)に再興されている。近年、隣接して太田市立縁切寺満徳寺資料館が開館した。

■徳川氏と満徳寺

 鎌倉時代に徳川郷を領地とした義季は、所領にちなんで徳川(得川)四郎と名乗った。徳川家康はこれを先祖とするという由緒が江戸時代の満徳寺の地位を決定した。家康は徳川郷を徳川氏の先祖新田氏の故地、つまり徳川氏発祥の地であるとして、1591(天正一九)年11月、450石の御朱印地(ごしゅいんち)として年貢課役(ねんぐかやく)を免除し、特別に庇護した(そのうち100石が満徳寺の御朱印地とされた)。徳川村といわず中世的な郷と称したのもそのあらわれであろう。

 徳川郷の百姓は脇差(わきざし)をさし、大名行列にも土下座(どげざ)しなかったといわれている。徳川郷を支配したのは正田隼人(しょうだはやと)家で、土地では「頭役」と呼ばれ、将軍の代替わりに際しては、満徳寺住職とならんで拝謁の栄によくすなど特別な地位にあった。1803(享和二)年の徳川郷明細帳によれば家数は72軒、人口は285人であった。

 満徳寺は、徳川氏発祥の地にあり、先祖が建立した寺であった。さらに千姫が満徳寺に入寺したことにより、さらにこの由緒が強調され、寺格を高めることとなった。

■満徳寺の寺格

 満徳寺は縁切寺としての機能のほかに、つぎのような寺格と性格を有していた。

  ●尼寺御所--いわゆる御所寺の格式をもっていた

  ●時宗一本寺--本山も末寺も持たない唯一独立した寺であった

  ●朱印寺--幕府から高百石の御朱印地を与えられた

  ●御位牌所--徳川家のために専ら念仏回向する寺であった

  ●御修復所--寺院の建築とその修復は幕府によって行われた

 満徳寺は徳川家とのゆかりを前面に出して、縁切寺法の取り扱いにもその権威をうしろ盾にした。

 満徳寺は徳川家の位牌所だったので、歴代将軍の位脾をはじめ、ゆかりの人たちの位牌がある。家康は特別に御神殿に祀られ、尊崇された。しかも「東照大権現 神儀」の裏には「大相国一品徳蓮社崇誉道和大居士」の戒名が刻まれている。

■満徳寺の終焉

 満徳寺は檀家(だんか)を持たず、徳川家の庇護にのみ依存していたので、明治維新をむかえ、江戸幕府が瓦解するとともに、1872(明治五)年に廃寺を余儀なくされた。

 もう一つの縁切寺である東慶寺が、最後の尼僧が逝去した後も男僧の寺として存続しているのと相違する。

 その後の満徳寺は、徳川区民がかつての堂宇を縮小・移築して集会所とし、本尊・位牌類を維持管理して今日に伝えたのである。